エッセイ | もしかしたら、勘違いされたいのかもしれない
- 帆夏 田中
- 10月6日
- 読了時間: 3分
私は、自分のことがよくわかりません。まわりのひとに「私ってどんなひと?」と聞くと、本当にさまざまな、面白い回答をもらえます。
これまでの回答集(記憶の限りで、一部抜粋)
冷たいひとだと思ってた。それか都会のOL的な
ふわふわしてて何も考えてなさそう
へんなひと。いつも突拍子もないことを言う
しっかりしてて真面目。A型っぽい
こう、文字に起こしてみると、全部がそれっぽいような、はたまた全部が違っているような。A型ということだけは正解ですが。結論、みんな私のことをわからないのです。なぜなら、私自身、わかっていないから。
なぜ、自分のことがわからないのか
その理由だけは自覚があります。
それは、一緒にいるひとに「似てきてしまう」からです。
まるで鏡みたいに、そのひとの性格や特徴がじぶんのなかに写りこんでしまう。いや、引き出されると言ったほうが近い。
頭の中まで同じということではありませんが、調子とか表情とか、こちらから見える側。たぶん「それ」は別の世界線のあなた、とも言えるのでしょう。
それでも、相手が私のことを説明してくれた時、この自分は心地いいとか、違和感があるだとか、そういう感覚は水泡のようにぽつぽつと浮かんできます。
他人からみえる自分に違和感を感じたとき、それは「勘違いされている」ということなんだと思うんです。
二種類の「勘違い」
勘違いにはふたつの種類があると思っています。
ひとつ目は、自分の思惑が、相手に違った形で受け取られたとき。
もうひとつは、自分のなかの何かを、相手が受け取って「しまった」とき。
その違いは「意思の有無」なのではないかと。そして後者の私は、ぼやけたセルフイメージと相手が抱いたイメージの差異に、違和感をもってようやく気付くことができる。
「意思のない私」は勘違いから生まれる
そんな私の「私」とは。それはそのまま「勘違い」なんだと思います。
つまり、私という何者かは、勘違いを通してしか生まれないのです。
私も勘違いを発見すると、苦しいのは、そう。ただときどき。
息がつまりそうになることはない。
甘んじて受け入れているわけでもない。
勘違いされることが、実はそこまで消極的な意味をもっていないのだと思います。
セルフイメージで遊ぼう
勘違いされることは、苦しい。なんでわかってくれないんだろう。勝手に自分のことを解釈しないでよ。
それは理想とするセルフイメージを持っているからこその葛藤。だから勘違いされたくない。
その苦しみに対する私なりの打開案は「自分」を無理に相手に伝えようとしないこと。
積極的に勘違いされよう、ということです。
勘違いされているなと思った瞬間、それはそのまま置いておく。
そうすることで、私は相手の期待を「裏切ること」ができる。
「私が本当はこういうひとなんて、相手は想像もつかないだろうなあ!」というあそび。
秘密という名のあそび。
相手はそんなあなたの正体に、いつか気づいたらびっくりするはず。ひとりかくれんぼ。
だからそのときが来るまでは、沈黙を守って、自分のなかにしかない真実だけを見つめている。それでいいのではないかと思うのです。
こんなに語ったけれど、いつも通り抽象的になりすぎて、この方法の汎用性は低いかもしれません。それでも。これで、誰かが苦しみを手放すことができれば。
コメント